2015/11/05

竜馬と龍馬―「明治維新という過ち」

~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~

「明治維新という過ち」
という長州テロリストによって作られた国家の真実を述べようとした本です。



今まで数多くの歴史小説や映画やテレビドラマで作られた、幕末から明治維新という名の日本国家。
その史実を根底からくつがえすような本です。

本を宣伝するつもりはありませんが、ポイントを抜粋して紹介します。

はじめに

(前略)

日本人は、幕末動乱のドラマが好きである。
ところが、幕末動乱期ほどいい加減な〝お話″が「歴史」としてまかり通っている時代はなく、虚実入り乱れて薩長土肥(薩摩・長州主 佐・肥前) の下級武士は永年ヒーローであった。
中でも、中心は長州と薩摩であった。

竜馬龍馬

それにしても不思議である。

天皇のおわす御所に大砲をぶっ放すという、過去の歴史に存在しない暴挙を決行して「朝敵」となった長州が、大どんでん返しで政権を獲ってしまうのだから、いつの時代も政争というものは分からない。

この一件に限っていえば、これには薩摩の存在が大きく作用している。
いうまでもなく、大河ドラマなどでお馴染みの「薩長同盟」の成立である。

これがなければ、どんでん返しは起こるべくもなかった。

薩摩は、何故朝敵となった長州に手を差し伸べたのか。
最後の将軍・徳川慶喜は、何故政権を放り出したのか。
会津・庄内・二本松などの奥羽列藩は、何故あれほど苛烈に長州・薩摩に対して徹底抗戦を貫いたのか。

このような幕末の歴史には、それなりに既に回答が用意されている。

回答を書いたのは、「朝敵」の烙印を押されたはずの長州人である。

そして、「明治維新」そのものに対する評価に疑問を差し挟む余地など、これまで全くなかったのである。

しかし、「御一新」、つまり『大政奉還』『廃藩置県』の後は、長州・薩摩の世になったということを忘れてはならない。

つまり、明治以降とは、長州・薩摩の世であり、このことは根っこのところで大正、昭和を経て平成の今も引き継がれているということなのだ。

即ち、私たちが子供の頃から教えられ、学んできた幕末維新に関わる歴史とは、「長州・薩摩の書いた歴史」であるということだ。

どのような幕末資料を読むにしても、まずこのことが大前提となるのである。

「勝てば官軍」といういい方がある。
きっかけはどうあれ、経緯はどうあれ、そして手段はどうであれ、勝った方が正義になるという人の世のやるせない真理を、この言葉は端的にいい当てている。

あの時、この言葉を呟いた人びとは、長州・薩摩、そして土佐が自称した「官軍」が普遍性のある正義でも何でもないことを承知していたのだ。
この言葉は、あの時会津が勝っていれば、即ち会津が「官軍」となったのだと、明快にいっているのだ。

そういう戦の勝者が、自分の都合に合わせて歴史を書くことは極めて普通のことであり、このことは古今東西、全く変わらない。
そのことを承知しておくことが、歴史を学ぶ、ひいては歴史に学ぶ知性であることを知っておくことが肝要なのだ。

我が国においても、『古事記』 『日本書紀』 が時の天皇政権の立場で編纂されていることは、誰もが承知している。

『記紀』 は、政権がようやく安定してきた八世紀に成立したものである。

ただ、『記紀』 はやはり勝者の立場で編まれたものではあるが、遥かに長閑(のどか)である。

歴史上の政権というものは、時間をかけて安定に向かうものであって、その長閑さが普通である。
私どもが教えられた幕末の歴史には、つまり長州・薩摩政権の書いた歴史には、そういう大らかさが微塵もない。

それは、展望をもたない強引な政権奪取であったからだと思われるが、この場合の「強引」とは、いつの世も政権奪取というものは強引なものであるという「当然」の域を超えているという意味である。

大切なことは、そういう歴史がこの百四十年以上綿々と教えられてきたという事実であり、そういう「長州・薩摩の書いた歴史」をまずは知るということであろう。

それを知った上で、「長州・薩摩が書かなかった」ことの実相を整理した方が、歴史というものの正体、恐ろしさを知ることができるというものだ。

(中略)

例えば、私の大学の大先輩・故司馬遼太郎氏の著作に『竜馬がゆく』という作品がある。
改めていうまでもないが、これは司馬さんの小説である。
つまり、フィクションである。

だからこそ、司馬さんは「龍馬」とせず、敢えて「竜馬」とした。
つまり、論理的にいえば「坂本龍馬」という土佐の郷士崩れのような男と「坂本竜馬」は別であって、司馬さん自身がそのことを十分意識しているということなのだ。

勿論、歴史上の人物なり事象を小説という形にする時は、それはそれで別の有効な作用が働くことがある。

司馬さんは、ご自身が認める通り〝龍馬ファン〞である。
私は龍馬が好きで、好きで、とあちこちの書き物で〝弁明″に努めている。

頭を掻き掻き、照れ笑いをしている司馬さんが目に浮かぶような調子なのだ。
ところが、多くの人がこの小説に描かれた竜馬を、「坂本龍馬」の実像だと信じ込んだ。
そして、このことが幕末動乱史の解釈を大いに誤らせたことは事実である。
坂本龍馬とはそれほど巨大な人物でも何でもない。
幕末の実相をあからさまにしようとするなら、『竜馬がゆく』における「竜馬」を、「坂本龍馬」にすっぽりと重ねてはいけない。

「薩長同盟」の立役者、『大政奉還』の献策、『五箇条の御誓文』の基になったとされる『船中八策』の立案策定等々から、さまざまなエピソードに至るまで、この人物に関しては麗しき誤解が余りにも多い。

過去、坂本龍馬については、三度のブームがあった。
つまり、龍馬とは、吉田松陰などと同様に死後その名を広く知られるようになった人物である。

彼を世に出したのは、新政権がようやく落ち着きをみせ始めた明治十六年に地元高知の地方新聞が掲載した連載小説である。
これによって、龍馬は世に出た。

二度目が日露戦争時だといわれる。

龍馬が皇后の夢枕に立ち、「帝国海軍は絶対勝つ⊥といったという、当時の有力紙に掲載された有名なエピソードである。

いうまでもなく日本海海戦の直前のことだが、これなどは、土佐出身の宮内大臣田中光顕あたりの作り話であるとしか考えられない。

三度目が、昭和三十七年から産経新聞に連載された司馬さんの『竜馬がゆく』が起こしたブームである。

このブームが定着し、龍馬は今や国民的人気を得ているといっていいだろう。
一つ、二つ冷や水を注しておくと、坂本龍馬という男は長崎・グラバー商会の〃営業マン〞的な存在であったようだ。

薩摩藩に武器弾薬を買わせ、それを長州に転売することができれば、彼にとってもメリットがある。

グラバー商会とは、清国でアヘン戦争を推進して中国侵略を展開した中心勢力ジャーディン・マセソン社の長崎(日本)代理店である。

この存在が「薩長同盟」の背景に厳然とある。

朝敵となった長州は武器が欲しい、薩摩は米が欲しい……この相互メリットをグラバー商会が繋いだ。

薩摩は永年密貿易の経験があり、長州は口では「攘夷断行!」と喚いてはいたが、既に秘密留学生(井上聞多、伊藤俊輔がこれに含まれている)を送り出していたほど共に幕府の禁令を無視する存在であった。

つまり、薩摩小松帯刀(たてわき)、長州桂小五郎が重視したのはグラバー商会であって、グラバー商会の利益を図る龍馬が「薩長同盟」に立ち会うようになったのは極めて自然な経緯ではなかったか。
私は、そう考えている。

盟約書の裏書は、第三者なら誰でもいいわけで、それがグラバー商会の意向を反映する人物なら、この同盟の目的からみても、あれほど憎しみ合った長州と薩摩双方とも納得できるはずだ。

単なる一人の脱藩浪士なら、その人物を個人としてどれだけ評価したとしても、潜在的に討幕の意思をもち続けてきた外様二大雄藩が、藩の命運を託することなどありようがないのだ。

尤も、龍馬とグラバー商会との関係から最近では龍馬=フリーメイソン説が出ているが、それは〝図に乗り過ぎ″というものであろう。
いずれにしても、坂本龍馬とは、日本侵略を企図していた国の手先・グラバー商会の、そのまた手先であったということだ。

また、龍馬の脱藩の理由は全く分かっていない。
そして、勝海舟を殺しにきて、逆に感化されて弟子になったなどというのは、ドラマとしては面白い話だが、私はウソであると思っている。

御一新後、勝自身がそう語っているではないかという反論を受けるだろうが、それは勝の「ホラ」の一種であると断じていいのではないか。

勝海舟という俄か御家人は、徳川慶喜(十五代将軍)と共に長州・薩摩に幕府売った張本人であるが、御一新後の勝の〃思い出声ほど信用できないものはないのだ。

『船中八策』になると、これはもう、いつ、誰が、どこで発案したものか、全く分からない。
そもそも伝わるような形の原案がそのまま存在したのかどうかさえ疑わしい。

その他、おりょうという女(寺田屋の養女)を妻とすること、郷士としての出自のこと、
北辰一刀流免許皆伝のこと等々、この男ほど虚飾が肥大して定着した幕末人は他に例をみない。
その意味では、司馬さんの罪は大きいといわねばならない。

蛇足ながら、以上のことを以てしても私の司馬さんに対する「智の巨人」としての評価が揺らぐことは些かもない。

なお、昭和二十八年に起きた「荒神橋事件」によって京都大学から放学処分(二度と復学できないので退学処分より重い)を受けた経歴をもつ歴史学者松浦玲氏が、坂本龍馬の実像研究家としては著名である。

勝海舟・横井小楯の研究家として名高い氏は、坂本龍馬に関しても、『検証・龍馬伝説』 (論創社刊)を著されている。

歴史の実相を明らかにするには、多くを先人に学ばなければならない。
しかし、かように幕末に関する資料や「お話」には、史実を知ろうとする場合には、細心の注意が必要である。

近年は誰もが一次資料だ、二次資料だと騒ぎ立て、一次資料というだけで無条件に信じ込む単純さが幅を利かせているが、私はもともと書き物だけが資料だとは思っていない。
京都・八坂通りの夕霧の中に佇めばば、会津藩士や新撰組隊士が腰をかがめて、長州のテロリストを求めて疾駆する姿が眼前に浮かび上がるだろう。

二条城周辺の闇は、京都見廻組の幕臣に暗澹たる思いを強いたことであろう。
そして、蛤御門に残る弾痕は、無防備な御所が紛れもなく天皇に殺意をもつ者によって砲撃されたことを訴えている。

私の生地・伏見界隈では、豆腐屋のラッパさえもが騒乱の中で愛した男たちの非業を嘆く女郎たちの泣声のように聞こえる。

歴史を皮膚感覚で理解するとは、その場の空気を感じとることだ。
歴史を学ぶとは年号を暗記することではなく、往時を生きた生身の人間の息吹を己の皮膚で感じることである。

資料や伝聞は、その助けに過ぎない。
そういう地道な作業の果てに、「明治維新」という無条件の正義が崩壊しない限り、この社会に真っ当な倫理と論理が価値をもつ時代が再び訪れることはないであろう。

平成二十六年十一月二十二日 仏滅 小雪 井の頭池 樹林事にて  原田 伊織



転載元: country-gentleman

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